僕の夢は自転車で世界中を旅することです。
今まで北米、南米、ヨーロッパ、オセアニアを自転車で旅してきました。
いつか、この赤マークで世界を埋め尽くします!!!
この記事では、筆者が今までどんな人生を歩んできたのかを書き綴ります。
もし良ければ最後まで、読んで頂ければと思います!人と違う人生を歩んできた自信はあるので退屈はさせません!(笑)
では行きましょう!!
自己紹介
本名:碓井 貴洋
性別:男
生年月日:1992/2/24
出身地:東京
職業:旅人(自称)
最終学歴:大学卒業
幼少期
小さい頃から活発な子でありました。
母親が「世界に羽ばたいて欲しい」という願いがあって、部屋に大きい世界地図がありました。小さい頃からそれをぼーっと眺めているのが大好きでした。
母親が、「羽ばたいて欲しい」と思ったのに、「地を這う」とは思わなかったと、旅から帰ってきた僕に言ったのは面白かったです。
幼稚園の頃から国旗に興味があり、最初に書いた国旗はスイスでした。モンゴルを描きたかったのですが、城みたいのが複雑で描くのが難しいと思いスイスを選んだ記憶はあります。
なのでスイスに訪れた時は、数あるうちの一つの夢が叶ったという思いにふけた感はありました。めちゃくちゃ物価が高かったので滞在期間は凄い短かったですがw
学生時代
小学生
活発で人気なこと良いことですが、集中力がなく、勉強は全くといっていい程できませんでした。体は小さかった方ですが、体育の授業では優れた身体能力を発揮していました。
中学生
ここでも勉強は全くで…授業中はほとんど寝てました。陽キャでしたのでOKです(笑)
赤点じゃない点を取った時には、クラスのみんなから「お前碓井に負けたぞ!」と比較対象になるほどでした。
部活はバスケをしていましたが、ほとんどベンチでした。多分合ってなかったんでしょうね。
得意なのは持久走ですかね。最高な時で学校4位でした。
高校生
高校は学力の関係で、なかなか荒れた学校でした。
なので授業中は寝るか、ゲームをするかのどっちかでしたね。
バスケ部でしたが、途中で原因不明のスランプに陥って帰宅部に。今考えれば、あれはイップスだったんだとわかります。
大学生
もちろん勉強ができなかった僕は、4流大学に進学。就職はしなければと思っていたので、4流大学ながら、就職率は全国でも30位以内に入る程。就職をするためにこの学校を選んだほど。
大学に入るや否や、親と一緒に暮らしていることが嫌で嫌で、大学1年の途中で1人暮らしを始めました。それと同じくらいにアルバイトも変える。
この時に東北大震災がおこります。
アルバイト先まで、自転車で行き、「従業員が出勤できないから深夜までやっていってくれ」と頼まれ了承すると、そのまま深夜番に定着(笑) 給料が良かったので嬉しかったが…夜勤と大学の両立は難しく、学校に行かなくなる。
アルバイト先がパチンコ、スロット、ギャンブルにまみれてる職場であったのと、大学の友達に競馬を教わり、学校行かずしてパチ屋に並び、週末は競馬場に足を運ぶ日々。
お金がない極貧大学生、考えたことは「お笑い芸人になればお金入ってくんじゃね!?俺面白いし!」と売れない芸人活動を始める。なんとか学校は卒業。
フリーター(暗黒期)
就職率が高いという理由で、大学に進学したものの、お笑い芸人になりたくフリーターの道を歩むも、スロットをすることが楽しく楽しくて、
「ギャンブル:お笑い芸人の比率は9:1」
気づけば借金100万。消費者金融2社から限度額MAXの50万ずつ借りてました。
家賃は3ヶ月滞納。電気代も滞納し過ぎて家に帰るも電気が点かず、街が停電になったのかと、おもいっきり勘違いして2日過す。(笑)
食べるものは、バイト先の賄いと、スーパーで半額シールを待って極貧生活を続ける。あまりにもお金がなさ過ぎて、銀行口座から200円を下ろした時の音は未だに忘れません。(笑)
バイト→パチ屋→バイト→競馬場→パチ屋→バイト→パチ屋→バイト→競馬場→パチ屋→バイト
のルーティン
ただのギャンブル依存症。人間の底辺の生活を続けている人生。
そんな意味ない生活の中、アルバイト先の3個下の新人君と運命的な出会いをする。
営業中、その新人アルバイト君が、大学の学費の為に休学をして、アルバイトを3つ掛け持ちして、1日約20時間働いていることを僕に話してくれた。
その時、僕は頭が完全に真っ白になった。完全に脳が思考を停止した。
…
…え?
「3つ年下の子が、大学の為に身を削って働いてるのに俺は、一体何をやっているのだろう………」
…
…
「…あっ、やべ、チャーハン焦がした……」振っていた中華鍋を完全に置きっぱなしにして、チャーハンの漕げた臭いで我に帰って来ました。
…
その後は家に帰って、自問自答。「俺はこのままでいいのか…年下の子が身を削って学費を貯めてるのに、俺はいいのかこれで…」夜勤勤務の後、既に20時間ほど起きているのにも関わらず自分の人生に深く考え、自問自答を繰り返し、気づけば昼過ぎに。。。
…
「このままではダメだ。間違いなくダメだ。。。
どうしよう。どうしよう。
どうしたら人生を変えられる?この半分終わった人生をどうやって巻き返せる?
人生を180°変えなければ。。。
……
人生で1番嫌いな物に突き進めば、人生を変えられる、180°変わるんじゃないだろうか?
僕が人生において1番嫌いな物は『勉強』
1番好きな『ギャンブル』を一切辞めて、1番嫌いな『勉強』をすれば変えられるかも…
『勉強』の中で1番嫌いな科目はなに?…
…
『英語』
じゃあ留学しよう。」
2015年夏、留学を決意。
フリーター(覚醒期)
留学を決意し、まずは留学ジャーナルに行ってお金がいくら必要か聞きに行くことに。
するといきなり、300万必要と言われる。(おそらく学校の期間を長く設定したから)
現状マイナス100万だから、400万を稼がないといけないのか…
ひとまずアルバイトをもう一個やろう。それと家賃の支払いが勿体ないから、実家に帰ろう。
親に芸人活動をやっていたことを初めて告白。留学に行くことを告白。頭を下げて家に帰りたいと懇願。
すると家族全員から非難轟々「なにを考えてるんだ」「バカじゃないの」
しかし、
母親を除いて。
母親だけは、「行ってきなさい」と。その時、涙を堪えるのに必死でした。
それからの、実家に戻ってからの生活は
- 19時〜5時 飲食店
- 6時〜13時 スーパー
- 通勤
- 14時〜17時 睡眠
- ご飯 通勤
のルーティンでした。1日の睡眠時間は平均3時間。勤務時間は平均19時間(残業含め)。
この時は、ただただ身を削って働くことしか考えてなかったので、「生きている」という実感はなく「肉片が動いている」といった感じでしたので、この時の記憶がほとんどありません。(笑)
この地獄のアルバイト生活の経験から
- 働き過ぎは体を壊す(坐骨神経痛を患った)
- 税金が高い(超過累進課税)
- 体を使って得る給料には限界がある(お金持ちはこういう稼ぎ方をしない)
ということを学びました。
この地獄のアルバイト生活から約1年、借金は全て返して資金300万を作ることができました。
完全に留学を行く決心と、旅立つ日が決まったので、友人達にカナダに留学することを伝えました。
僕の頭の中では報告したら、みんなから祝福される、応援されるとばかり思っていました。
しかし…
「人生舐めてんだろお前?」、「いいね。親や他人に迷惑かけて好き放題生きて」、「お前歳いくつだよ」、「25歳で留学とか馬鹿なんじゃない?ww」、「お前の人生詰んだなwwじゃあなww」、「もう会うことは二度とないよ」
なぜ、こんなにも罵声を浴びさせられるのかよくわかりませんでした…
正直、言われるたびに、ぶん殴ってやろうと思いましたが…場所が公共の場や、居酒屋でしたし、他の方もいたので、ひたすらに歯を食いしばっ耐えていました。一生忘れません。
そして、絶対に見返してやろうと。
さらに…
留学行く前に、父方の祖母と叔母に挨拶しなさい、ということでしたので、報告をすると、それらを凌駕するほどの辛辣かつ悲しい言葉を浴びました。
叔母「ふーん。あんたの(母親に向かって)とこの子供は、こんな馬鹿なことをして、それをあなたは許すの?なんてアホなの?」
父「もう帰ってこないんだから、自分の部屋の物全部捨てて行けよ。」
祖母「日本は安全な国だよ。日本にずっといた方がいいよ。日本にいなさい。それでもあんたは行くのならもうお別れだね。最期だね。死にに行くんだね。じゃあね。」
父親側の親戚一同、友人から何一つ応援の言葉もありませんでした。この一連の出来事は一生忘れないと思います。
けれど、母親からは「お母さんのことは気にしないで行ってきなさい。たか(僕:Taka)が留学行くって言った時は嬉しかったし、お母さんも若い頃『留学に行きたいな、世界に行ってみたいな』って思ってたけど、結局行かなかったから、たかには留学に行って欲しい。それに、この1年間本当に死に物狂いで働いてたのを知ってるから、頑張ってきなさい。行ってきなさい」
また、泣きそうになるのを堪えてました。そして、これをきっかけに「人の背中を押せる人になりたい」、「人の夢や目標を応援する人になりたい」と思うようになりました。
2017年1月26日、僕は25歳という決して若くない年齢でカナダに留学に行きました。
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